信濃毎日新聞コラム(5)臨床研究進めるために(武藤)

2010/10/25

サイエンスの小径(2010年10月25日信濃毎日新聞掲載)
▽臨床研究進めるために▽武藤香織


日本人の2人に1人が、がんになる時代。さらに有効な予防法や治療法の確立が期待されている。そして、新しい治療法の確立のために欠かせないのが、安全性や有効性を確かめるための臨床試験である。現在、人の免疫の働きを強化して、がん細胞の表面にある蛋白質を目印にがん細胞を攻撃させる、がんペプチドワクチン療法の臨床試験が全国的に行われている。

私の勤務先の附属病院で行われた、進行性膵臓がんに対するがんペプチドワクチン療法の臨床試験に問題があったと指摘する記事が、先日、全国紙に載った。批判の柱は「臨床試験の被験者に起きた消化管出血について、他の施設にもその事実を伝えるべきだったのに、しなかった」という点だ。

臨床試験の期間中に生じた、あらゆる好ましくない医療上の出来事を有害事象と呼ぶ。臨床試験で入院中に風邪をひいて入院期間が延びても、「重篤な有害事象」と扱われる。薬剤と体調不良の関係を分析することは難しい。だが、関係している可能性が高まれば、臨床試験をすぐに中止するのも原則だ。

この事例の場合、出血の原因はペプチドにあったというだけの根拠はなく、膵臓がんの進行に伴うものと考えられた。臨床試験は単独で実施したため、他施設に直接通知はしていないが、研究会や論文では報告している。記事には基本的な事実関係の誤りや誤解を招く表現もあり、反論の記者会見が行われた。

だが、取り上げられた患者さんやご家族、全国のがん患者さんたちから見たとき、当事者不在の冷たいやりとりに見えなかっただろうか。実際、患者さんやご家族から、「がんペプチドワクチンを投与すると出血するのか」という問い合わせも相次ぎ、波紋の大きさがうかがえた。

後日、がん患者団体41団体が「がん臨床研究の適切な推進に関する声明文」を出した。明確な根拠とオープンな議論に基づいて研究予算が拡充されること、尊い意思を持って臨床試験に参画する被験者保護のほか、「臨床試験に伴う有害事象などの報道に関しては、がん患者も含む一般国民の視点を考え、事実をわかりやすく伝える冷静な報道を求めます」と要望した。これに反対する声はあるまい。

患者にとって大切な情報と、主治医や臨床試験担当医師が必要とする情報、そしてジャーナリズムが報道する価値があると判断する情報には、それぞれ距離がある。それを前提にコミュニケーションを継続する努力を忘れないようにしたい。

(東大医科学研究所准教授)